2011年05月31日

田中美弥子先生記念会説教

良き死を迎えられた田中先生が、私どもにかけてくださった言葉。

それは、

あっというまに死を迎える日が来てもあわてることはないということであります。

私どもが日々の生活を送るガリラヤ、困難、悩み、悲しみを経験するガリラヤ、

しかし主の御言葉に慰められ、励まされ、喜びを与えられるところ。

ガリラヤで復活の主が待っていてくださるからであります。


田中美弥子先生記念会

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2011年05月27日

「復活の主」 田中美弥子



フラッシュプレイヤーが見えない方

エレミヤ書 第6章16−17節
マタイによる福音書 第28章1−20節

 今朝の礼拝は主イエス・キリストが父なる神さまによって死からよみがえらされた。そのことを喜び祝うイースター礼拝をささげています。そしてまた私事で恐縮ですが、浦賀教会牧師として現役最後の説教をさせていただく日となりました。早赴任して二三年八ヶ月という数字が挙げられます。私自身はそんなに長くいたとは感じられません。せいぜい一五年位かなという思いであります。
 三人の友人が浦賀教会を訪ねてきました。久しぶりに会いますとお互いに年をとったなあという思いを持ちますけれども、話し合う途端にもう高校生になったような気分になります。そうすると急に今六一歳だという自分の年齢を思って錯覚にとらわれてしまう。おかしな、急にここに来てしまったという思いを持ちました。折り返し点を過ぎると一年の過ぎるスピードも加速するばかりかもしれません。気が付いたら死を迎える日があっという間に来たということになるやもしれないのです。
 かつて東大の教授であった森有正は、女子大での講演の後で、廊下で一人の学生に呼び止められ、先生、先生は何のために生きているのですか、と突然聞かれたそうです。その時森有正は、とっさに、私は死ぬために生きているんですと答えたと書いています。しかしとっさに答えたとはいえ、そのことは先生が日々求めていたことでありました。死ぬために生きる。それは良き死をとげる備えをするために生きているということです。良い死をとげたい。良い死に方をしたい。それは私たち誰もが願うことではないでしょうか。しかし果たして自分はいざ死を迎えた時、どんな心の状態になるのだろうか。ふと考えるかもしれません。
 皆様良くご存じだと思いますが、お茶の水にありますニコライ堂、日本ハリストス正教会がありますが、そこである大主教の最後について紹介された書物を目にしたことがあります。セルゲイ司教の執筆によってでありましたが、その大主教は七六歳で亡くなる三日前の事でありました。死ぬのがこわい。ああ実に死ぬのがおそろしいと言われた。私は何の良いことをしましたか。何もない。本当に言いますが、何もない。祈祷は全くなすべき様にすることができない。自分の利益のためにも、必要に応じて十分働かなかった。もっぱら財政の方に心を用いておった、と嘆かれたそうです。特別優秀だからこそ大主教に選ばれた。その方でありましても、いざ死の切迫していることを関知した時には、死への恐れで満たされてしまった。それを読んでとても驚きました。
 けれども救われるために、死を恐れなく迎えるために、自分の功績や義を神さまの御前に差し出さねばならないとしたら、誰もがこの大主教のように死ぬのがこわくなるでありましょう。誰一人救われる者はおりません。しかし主イエス・キリストは神の御前に完全なる正しさなど差し出すことなどない。差し出すことなど出来ない私たち自分中心で弱く、みじめな罪人である人間を、罪から救うために、十字架にかかって死んでくださったんです。私どもすべての罪を帳消しにするために、清めるために、主はご自分の命をささげきってくださったのです。おそらくこの大主教も、一時死へのおそれに満ちたとしても、その後キリストの十字架と復活の恵みに立ちかえって、安らかに死を迎えたであろうと思います。……

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書第二八章一六-二〇節)


 弟子たちを先に行かせてから、後から行くというのではない。主の方で待っていてくださる。主のやさしさを思わずにおれません。そして一一人の弟子たちは、ガリラヤの指示された山で、復活の主にお会いできた。そしてひれ伏したとあります。主を礼拝したのです。
 しかし、にもかかわらず主の復活を疑う者もいた。疑う者とは複数形で書かれています。死からよみがえることなど人間には考えられないことでありますから、この方が本当にあの主イエス・キリストなのか、疑ってしまっても仕方ないでありましょう。その彼らに主イエスの方からまた近寄ってきてくださった。ご自身であることを見定めさせられるのです。そして、すべての民を主の弟子とするように、すなわちすべての人が救われるように、伝道へと弟子たちを派遣されたのです。疑った者たちも主にお会いし、この主のお言葉を聞いて、主は確かによみがえられた。あの主だ、と信ずることができたのです。どんなに大きな喜びを持ったことか。やがて弟子たちは聖霊を受ける。迫害もおそれずに大胆にイエスこそ死からよみがえられた、まことの救い主であられる。この方を信ずる以外に救いはないのだと、命がけで宣べ伝える者と変わりました。
 弟子たちも、また婦人たちも主イエスにお会いしており、さらに御言葉を聞いて、主を信ずることができた。ところが私たちは残念ながら主イエスを肉眼で見ることはできません。けれどもただひたすら御言葉を聞いて信じて行く道を与えられています。そしてそれこそが信仰であると言えるのです。
 なぜ主は弟子たちとガリラヤで会うことにされたのでしょうか。ガリラヤは主の弟子になる前の、彼らの生活の場でした。日々の重みがあった、悩みがあったところです。これからの弟子たちの歩みも決して生やさしいものではない。迫害が待っている。けれどもその彼らに主は、「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と約束してくださったのです。この御言葉に聞きながら、信仰を強め、主に従う力が、勇気が与えられることを、主は願われたからでありましょう。
 私たちにとっても生きる場は象徴的に申せば、このガリラヤと言って良いかもしれません。時に思わぬ困難にぶつかって行く。頭を悩ます問題が起きてくる。悲しいことが生じるかもしれない。しかしそれらの荷を担いながらも、復活の主が世の終わりまで私たちとともにいてくださることを確信して、御言葉に慰められ、励まされて生きることを、私たちにも願っていてくださるのです。
 主はよみがえられました。復活された。死を突き破ってくださった。罪と死に勝利してくださったのです。主は今もとこしえに生きておられる。天と地の一切の権能を授かって全世界を支配しておられるのです。ですから私たちは、この世界で孤独に生きるのではありません。私たちと共に復活の主がいつもいてくださるからであります。
 主が復活されたとは、私たちの罪の赦しを確認させていただける。そのことだけではなく、どんな時にも憐れみ深いやさしい主が私たちとともにいてくださるということでもあります。担っている荷を放棄するのではなく、日々、その荷を担って行く。しかし復活の主によって与えられる神の国への希望に生きていく恵みが私たちに与えられています。
 良き死を迎えるための備えとはすなわち、私たちの日々の生活を御言葉に聞いて、慰められて、励まされて確かな望みに生きることであります。その生活の積み重ねの中で、あっというまに死を迎える日が来ても、あわてることはない。静かに安らかに死を迎えることができるでありましょう。「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる。」私たちがいつか神の国にあずかれる日を、復活の主は喜んで待っていてくださるのだと思えてなりません。すべての人が、この主のもとへ、神の国にあずからせていただきたいと願います。
 御言葉を聞き、御言葉に慰められ、御言葉に支えられて、主に従って行く生活を大切に生きること。それが良き死への備えとなります。祈りあって共々に信仰の成長をして行きたいと願います。
 (二〇〇八年三月二三日主日礼拝説教)
posted by かたつむり at 23:31| Comment(1) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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